top of page

私はクロッキーとデッサンの違いも分からない美術とは無縁の者です。作風はまだ手探り状態ですが、色々と描いているうちに自分らしさが生まれるかもです。時には思い通りにならなくて、その壁をなかなか乗り越えられず諦めてしまったり、ごまかしてしまったりして苦悩することもありますが、とにかく鉛筆画(イラスト)を楽しんでいます。

 

鉛筆画は大げさな道具や準備をする必要もなく、費用もさほど掛からないとてもハードルの低い楽しみです。ですからすぐにやめてしまっても経済的にも精神的にも負担にならないかと。これ、私としてはとても大事です。

 

道具にこだわればどんなことでも費用が高額になりますが、鉛筆画は油絵や日本画・水彩画などに比べれば初期費用はとても少なくてすみます。また、他の人と一緒に和気藹々と楽しめれば尚良いのですが、メンバーが揃わないとできないようなチームスポーツや多人数で行うゲームなどの趣味とは違うので、一人でも楽しめますし自宅でできます。「むしろ大人数で一緒に何かをすることのほうが苦手」という人にも向いている楽しみの一つかもしれません。鉛筆・紙・消しゴム、そして「やってみようかなぁ」という気持ちがあれば今日からでも始められます。

 

インターネット上では手本となる凄い作品が無数にあります。どれも素晴らしいものばかりです。ところで、最近気になり始めたことが一つ、頭から離れません。写真と見間違えてしまうような作品に対してなのですが、それはそれで凄いのですが、個人的に共通して感じられるものが「そこに(その作品に)『個性』はあるのだろうか」ということです。確かに神の領域に踏み込んだほどのテクニックの証明はできますね。写真のような鉛筆画を描くこと、それ自体は一つの挑戦です。

インターネットを見ているとこんな酷評を言う人がいます。「そこまで写真に近づけるのなら絵じゃなくても写真のままで良いのでは? 」「そんなにまで写真に近づけることにどんな意味があるの? 」。かなり辛辣な感想だなと思う一方で、どこか言い当てているというか、反論できないところに私自身の心の奥底にあったモヤモヤとした何かに共鳴するものを感じました。写真に近づけば近づくほど、作者の個性がなくなっていく、そんな感覚がいつの頃からか脳裏から離れません。それらの作品を並べて見た時、誰が描いたものなのか区別がつかないのです。私の観察力・洞察力・感受性が未熟なのかもですが。

 

もちろん色々な考え方があるでしょう。私はスーパーリアリズムを否定しません。できるなら私もそんなテクニックを身に付けたい! そう思っています。ただ、 私の最終到達点はそこではないのだと感じます。下手でも、未熟でも良い。

 

つまりは下手も、未熟も個性なのだと。

 

モノクローム(単一色)の作品では色彩で個性を表現することはとても難しいですが、一本一本の線の使い方、濃淡の使い方、暈かし方などには自然と個性が出るように感じます。「自然と出るから個性」なのかもですね。「今回はどんなタッチで描こうかな」とか「この紙の中にはどんな作品が隠れているのかな」というように、楽しみながら何となくワクワクしながら作品に向かう自分を感じる時、それが刹那の幸せなんだと思うようになりました。「ただの独りよがり、自己満足。 結局は自分の至らなさを弁解する詭弁だ」と言われそうです。そうかも知れません。そんな批判に一喜一憂せず、誰に迷惑を掛けるわけでもないですし、自己満足おおいに結構、「これが私、これが私の個性」という作品を追い求めたい。「自分」の無い無機質な作品(鉛筆画)はやはり寂しいです。

DSC07284_Soft.JPG
鉛筆画 Size : B4 部分クローズアップ
気軽に鉛筆画を楽しみましょう。鉛筆と紙と消しゴム、そしてやる気があれば誰でもできます。費用が少なくて済むのでお財布にも優しいですよ。

お問い合わせ


E-mail : moridon96@gmail.com

Your details were sent successfully!

bottom of page